第6部 岩見隆夫のお徒歩(かち)ニッポン再発見より  堤防にあがってみた。日本最大の大河をまたいで宇都宮線の鉄橋が走っている。1885(明治18)年に同線は開通したのだが、鉄橋の完成だけが遅れ1年間は川の部分だけ乗客を渡しで運んだという。徒歩から鉄道に切り替わったころの珍風景だった。  利根川大橋を渡る。栃木、茨城両県を経て日光街道はここから埼玉県に入っていく。川沿いにまず<栗橋宿(同県栗橋町)>。街道中、ただ1カ所の関所が置かれた交通の要衝だ。河川敷に<栗橋関所跡>の碑が立っていて、  <江戸幕府は交通統制と治安維持の為に、主要な街道が国境の山地や河川を越す要地に関所を設け・・・>  と説明書きがある。4人の番士が交代で関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視したが、1869(明治2)年の関門廃止令で姿を消した。「当時は関所破りが結構あったんですよ。ことに女性の出入りを厳しくチェックした。外様大名が多かったから、江戸に人質に取られている妻女に逃げ帰られると、反乱の原因になる、と警戒したんですね。しかし、抜け道がいくつもあったらしい」と街道筋に精通している埼玉県立博物館、杉山正司主任学芸員の話だ。  この宿場には、当然のことながら街道を断ち切る利根川の渡船場があった。<房川渡>と呼ばれ名称のいわれは諸説あるが、2そうの渡しが1924(大正13)年の大橋完成まで続く。  8代将軍の吉宗社参時の<船渡河の図>(1728年)も関所跡で見た。川幅142間(255メートル)に船51そうを浮かべ、鎖で連結して2寸板を敷きつめその上にコモや土、さらに砂をかぶせ、というごていねいなものだったという。  さらに南下する。江戸(東京)が次第に近づいてきたかな、と思いめぐらせながら<幸手宿(埼玉県幸手市)>にやってきた。  なにはともあれ、桜好きの私、うわさに聞く桜名所<権現堂堤>をめざす。堤は江戸を利根川の水害から守るために築かれ、付近に熊野権現をまつる熊野神社があることから、この名称になった。幸手権現堂桜堤保存会の川又貢会長は、「シーズンには桜と菜の花がいっしょに咲き競って、もちろん県下一ですな。1キロの堤に約1000本、45万人がやってきますから」と得意気である。この春、できれば訪れたい。  街道筋はどこを歩いても酒と縁が深い。旅人と宿と酒、それはそうだろう。幸手市のシニセ<石井酒造>をのぞいた。7代目、石井明社長が言う。「ここぐらいでしか獲れない、粒の小さい<白目米>というのがある。食べるとうまくないが、酒にするといい。少ししかつくれないんで、市民祭なんかにだすんです。まあ、伝統文化というのは、土と光と水と空気だから・・・」  そこまで言われれば、ぜひともひと口、と所望したが、街道の銘酒、なかなかいけましたね。  石井酒造前で日光街道と<日光御成道>が合流している。御成道は名前のとおり、将軍の日光社参のため古くから整備された道だが、それがありながら、なぜ新たに街道を通したのか。杉山さんは「狙いは、江戸・幸手間を最短で結び、奥州に短時間で向かうことにあったのではないか。奥州は伊達、上杉、最上、佐竹など外様雄藩が多く、初期の幕藩体制の確立のころは不安定な地域でした。五街道すべてがそうだが、いざという時の軍用道路でしょう」と解説してくれた。幕府にとって、街道の多面的な役割が浮きでてくる。